賤ヶ岳七本槍とは?7人の若い武将の功績と幻の2名の存在を解説

「賤ヶ岳七本槍とはなんのこと?」

「7人の武将にはどんな人がいたの?」

このように考えていませんか?

賤ヶ岳の戦いは、1583年4月に起きた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の間で勃発した戦いで、織田信長亡きあとの歴史的な転換点となった合戦です。

この戦で特に名を上げた「賤ヶ岳七本槍」は、若くして大きな功績を挙げた7人の武将たちを指します。

本記事では、賤ヶ岳七本槍の詳細や七本槍に入らなかった幻の2名の武将について解説します。ぜひ参考にしてみてください。

賤ヶ岳七本槍(しずがたけのしちほんやり)とは

賤ヶ岳七本槍

賤ヶ岳七本槍とは、賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉軍の中で目覚ましい活躍を見せた7人の武将たちを指します。

賤ヶ岳七本槍について、以下の2点を理解していきましょう。

  • ・賤ヶ岳の戦いにおいて功名をあげた7人の武将
  • ・賤ヶ岳の戦いとは?

ひとつずつ解説します。

賤ヶ岳の戦いにおいて功名をあげた7人の武将

賤ケ岳の七本槍と呼ばれる武将は、豊臣秀吉が若い頃から育てた家臣たちです。

当時、秀吉は農民から武将へと異例の出世を遂げたため、古くから仕える譜代の家臣団がほとんどいませんでした。

そのため、秀吉は自らの家臣団の名声を高めるべく、彼らの武勇を広く伝えたとされています。

賤ヶ岳の戦いとは?

賤ヶ岳の戦いは、1583年に豊臣秀吉軍と柴田勝家軍が織田家の後継者争いから起きた戦です。

1582年に明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長を討ったことから始まります。

織田家の後継者を巡り、柴田勝家は信長の三男・信孝を支持、秀吉は三法師を後継者に推し、自身が後見人となることで勢力を拡大しました。

勝家が冬の間、北ノ庄城に足止めされている間に、秀吉は勝家方の長浜城や岐阜城を次々に攻略し優位に立ちます。

1583年2月、勝家軍の部将・佐久間盛政が賤ヶ岳を攻めますが、秀吉の見事な逆転劇で勝利を収めたのです。

敗れた勝家は北ノ庄城に退却しますが、秀吉軍に包囲され、妻のお市と共に自害しました。この戦いにより秀吉はさらに勢力を拡大し、天下統一への道を切り開いたとされています。

賤ヶ岳七本槍に数えられた若い武将

賤ヶ岳七本槍

賤ケ岳の戦いで功名を残した武将は以下の7人です。

  • ・加藤清正(かとうきよまさ)
  • ・平野長泰(ひらのながやす)
  • ・片桐且元(かたぎりかつもと)
  • ・福島正則(ふくしままさのり)
  • ・脇坂安治(わきさかやすはる)
  • ・加藤嘉明(かとうよしあき)
  • ・糟屋武則(かすやたけのり)

ひとりずつ紹介します。

加藤清正(かとうきよまさ)|1562~1611

加藤清正は豊臣秀吉の親戚にあたる人物で、まだ少年だった1573年頃から秀吉の小姓(こしょう)として仕え始めました。

賤ヶ岳の戦いでは、敵将・山路正国を討ち取り、大きな武功を挙げます。

武勇に優れた武将として知られる一方、財政管理や行政にも才能を発揮し、築城の名手としても名をはせました。

他にも、小牧・長久手の戦いをはじめ、九州平定・文禄の役・慶長の役など、さまざまな場面で活躍し、19万5千石の大名にまで出世します。

関ヶ原の戦いでは、石田三成との対立から東軍に属し、戦後は肥後国で54万石を領する大名となりました。

平野長泰(ひらのながやす)|1559~1628

平野長泰は尾張国で生まれ、父親と同じく若い頃から豊臣秀吉に仕えます。

賤ケ岳の戦いでは目覚ましい活躍を見せ、翌1584年に行われた小牧・長久手の戦いでも奮戦し、敵将の首を挙げるなどの功績を挙げました。

その後もさまざまな戦いに参戦し、秀吉の側近である馬廻(うままわり)衆に任じられ、大和国(現在の奈良県)において5千石の領地を与えられるほどの信頼を得ます。

しかし、関ヶ原の戦いでは東軍に味方したものの、功績を残せず、賤ケ岳の七本槍の中で唯一、大名となることは叶いませんでした。

片桐且元(かたぎりかつもと)|1556~1615

片桐且元は近江国(現在の滋賀県)に生まれ、浅井長政に仕える地方豪族の子として育ちました。

1573年、浅井長政が織田信長に敗北すると、浅井氏に代わって領地を治めることになった豊臣秀吉に仕えるようになります。

賤ヶ岳の戦いでは、先陣を切る活躍によって「一番槍」の武功を評価され、摂津国(現在の大阪府北摂部と兵庫県南東部)に3千石の領地を与えられました。

小牧・長久手の戦いでは、秀吉の側近部隊である馬廻衆として重要な役割を果たし、その後は奉行として検地(領地の測量や調査)にも携わります。

数々の功績により、1万石の領地を与えられるまでに成長しました。

福島正則(ふくしままさのり)|1561~1624

福島正則は加藤清正と同様に豊臣秀吉の親族であり、幼い頃から秀吉の小姓として仕えるようになりました。

18歳で初陣を飾り、明智光秀を討った山崎の戦いで活躍したひとりです。

賤ケ岳の戦いでは先陣を切って敵陣に突入し、敵将・拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る功績を挙げました。

この活躍により、賤ケ岳七本槍の中で最も多い5千石の加増を受けることになります。

また、幼少期から共に過ごした加藤清正とは特に親しい友人関係だったようです。

その後も数々の戦場で武功を重ね、武勇に優れた武将として名をはせました。

尾張国清洲では24万石の大名となり、関ヶ原の戦いでは朝鮮出兵の際から対立していた石田三成との因縁もあり東軍に味方します。

この戦いでの功績により、現在の広島県全域を含む49万千石の領地を与えられる大名へと成長しました。

脇坂安治(わきざかやすはる)|1554~1626

脇坂安治はかつて明智光秀の与力(有力武士に従う家臣)として仕えていましたが、自らの希望で豊臣秀吉の家臣となった人物です。

賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家の養子である柴田勝政(佐久間盛政の弟)を討ち取るという大きな戦功を挙げ、賤ケ岳七本槍のひとりに名を連ねることとなりました。

その後も数々の戦いで活躍し、小田原征伐や朝鮮出兵では水軍を率いて重要な役割を果たしたことで知られています。

関ヶ原の戦いでは西軍側についたものの、大きな処罰を受けることはなく、3万3千石の領地はそのまま認められる形となりました。

加藤嘉明(かとうよしあき)|1563~1631

加藤嘉明はその才覚を評価され、豊臣秀吉の養子・豊臣秀勝の小姓として仕官しました。

その後、秀吉の直臣となり、賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、小牧・長久手の戦いや雑賀攻めにも従軍しました。

九州征伐や小田原征伐では水軍を率いて活躍し、文禄の役での戦功によって再び感状を受け、10万石を超える領地を与えられる大名となります。

武断派(武力で政治を行う立場)の武将として知られた加藤嘉明は、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦い、戦後は領地が加増され、20万石を治める大名へと出世を遂げました。

糟屋武則(かすやたけのり)|1562~1607

糟屋武則は播磨国(現在の兵庫県南西部)出身の武将ですが、彼の生い立ちや詳細な出自については、記録が少なくほとんど明らかになっていません。

1577年、黒田官兵衛の推薦により、豊臣秀吉の小姓頭に任命されました。

賤ヶ岳の戦いでは、敵将である佐久間盛政の家臣、宿屋七左衛門(やどやななさえもん)と戦い、討ち取る武功を挙げています。

その後も糟屋武則は、小牧・長久手の戦い・九州征伐・小田原征伐などに参加し活躍しました。

功績が認められ、播磨国加古川城主として1万2千石の領地を与えられるまでに出世します。

しかし、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、敗戦後に所領を没収され、領地も失いました。

実は九本槍?七本槍に入らなかった2人の武将

賤ヶ岳七本槍

豊臣秀吉から、功績を称えられた七本槍ですが、もとは9人いたとされています。

七本槍に入らなかった2名の武将は以下の通りです。

  • ・石河兵助(いしかわひょうすけ)|?~1583
  • ・桜井佐吉(さくらいさきち)|?~1586

それぞれ紹介します。

石河兵助(いしかわひょうすけ)|?~1583

石河兵助は、九本槍として含まれるはずだったものの、外されてしまった武将のひとりです。

彼は美濃国の武士・石河光重の三男として生まれました。

元服後は貞友、さらに一光と名を改めています。

兵助は、福島正則や加藤清正に劣らず、豊臣秀吉がまだ藤吉郎だった頃から仕えていました。

さらに彼の兄弟4人全員が秀吉の馬廻衆として仕えるなど、一族ぐるみで秀吉を支えています。

兵助は賤ヶ岳の戦いで自身の決意表明として兜を被らずに先陣を切りました。

猛然と敵陣に突入し、柴田方に大きな打を与えます。

しかし、拝郷五左衛門久盈(ひさみつ)が兵助の前に立ちはだかり、槍で左目を貫かれて敗北しました。

福島正則が駆けつけ、間一髪で兵助を救出しますが、最終的に命を落としてしまいます。

話を聞いた秀吉は深く悲しみ、「勇猛さは一番槍に値する」として、九本槍のひとりとして顕彰しました。

桜井佐吉(さくらいさきち)|?~1586

佐吉は、柴田方の宿屋七左衛門と激しい戦いを繰り広げました。

七左衛門は非常に腕の立つ武将で、佐吉は押されて肩に深い傷を負い、一時は討ち取られる寸前まで追い詰められます。

しかし、粕屋武則が駆けつけ2人で協力して立ち向かい、七左衛門を討ち取り、窮地を脱しました。

今度は七左衛門の弟・次郎助が兄の仇を討つべく、大太刀を振りかざして襲いかかります。

負傷していたものの、佐吉はこれに応じて戦います。激しい太刀打ちが続きますが、決着がつかず、やがて両者は太刀を捨てて組み討ちとなりました。

もみ合いの中で、佐吉は次郎助を押さえ込み、脇差しで鎧の隙間を突いて討ち取ることに成功します。

勇敢な戦いぶりが評価され、佐吉は「九本槍」のひとりとして名を連ねることになりました。

しかし、この戦いで負った傷または、病により3年後に命を落とします。

【Q&A】賤ヶ岳の戦いで気になる疑問

賤ヶ岳七本槍

賤ケ岳の戦いで気になる疑問を解決していきましょう。

  • Q.なぜ「石河兵助」「桜井佐吉」の2名は七本槍に数えられなかったのか?
  • Q.賤ヶ岳の戦いの結果はどうなった?

それぞれ回答します。

Q.なぜ「石河兵助」「桜井佐吉」の2名は七本槍に数えられなかったのか?

A.ひとつの説として、戦いの後すぐに2人が亡くなったことが挙げられます。

石河兵助は左目を失うほどの重傷を負い、その傷が原因で戦後まもなく命を落としました。また、桜井佐吉も戦で負った傷や病によって早逝したとされています。

当時の武功はその後の活躍を通じて広く認められることが多かったため、戦後に早く亡くなったことで功績が十分に評価されなかったためです。

もうひとつの説として、「七本槍」という呼称が語呂の良さを重視して定められたという見方もあります。

実際には賤ヶ岳の戦いで活躍した武将は7人に留まらず、九本槍や十一本槍とする文献も存在します。

しかし、「七」という数字は日本の文化や言葉のリズムとして馴染みやすく、「七本槍」という名前が広まったと言われているのです。

Q.賤ヶ岳の戦いの結果はどうなった?

A.賤ヶ岳の戦いは、豊臣秀吉の勢力を大きく拡大させるきっかけとなった重要な戦です。

秀吉は柴田勝家率いる北陸勢を撃破し、勝利を収めました。

勝家は自刃し、柴田家は滅亡したことで、秀吉は織田信長の後継者争いにおいて決定的な地位を築いたのです。

さらに、この戦いで目覚ましい活躍を見せた賤ヶ岳七本槍の武将たちも出世を遂げます。

加藤清正や福島正則といった武将たちは後に大名として各地に領地を持ち、豊臣政権を支える重要な柱となりました。

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賤ヶ岳の戦いは、豊臣秀吉が天下統一への道を切り開いた重要な戦です。

戦で名を挙げた「賤ヶ岳七本槍」の武将たちは、秀吉を支えた家臣団として、後の豊臣政権を築く柱となりました。

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